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ジャズピアノレッスン

ホレス・シルバーの人生とエピソード | ジャズピアノのはじめかた

ジャズの歴史において、ホレス・シルバーはファンキー・ジャズの創始者として名高いピアニストであり、作曲家であり、バンドリーダーである。彼の音楽は、アフリカ、ポルトガル、ラテンなど多様な文化の影響を受けたカーボベルデ系アメリカ人としてのルーツ、バド・パウエルやアート・ブレイキーといったジャズの巨匠たちとの出会いと交流、そして自らの探求心と創造力によって形成された。このエッセイでは、ホレス・シルバーの人生とエピソードを通して、彼の音楽の魅力と意義に迫ってみたい。

カーボベルデの息吹

ホレス・シルヴァーは1928年9月2日、コネチカット州ノーウォークに生まれた1。彼の父親はカーボベルデのマイオ島出身のアフリカ系ポルトガル人で、母親はコネチカット州のアイルランド系とアフリカ系の混血であった2。シルヴァーは幼少期からピアノを習い、クラシック音楽のレッスンを受けたが、父親の影響でカーボベルデの音楽やブラジルのサンバにも親しんだ3。また、父親は自身も音楽家であり、シルヴァーに「もっとサンバのフィーリングを入れたらどうか」と進言していたという4。

カーボベルデはアフリカの西岸にある島国で、ポルトガルの植民地だった歴史がある。そのため、カーボベルデの音楽はポルトガル、アフリカ、カリブ、ブラジルなどの音楽から影響を受けており、独自のリズムやメロディーを持っている5。シルヴァーはカーボベルデの音楽に対して「非常に感動的で、心に響くものだ」と語っており、自分の音楽にもその要素を取り入れようとした6。

シルヴァーの代表作のひとつである『ソング・フォー・マイ・ファーザー』(1964年)は、カーボベルデの音楽へのオマージュとして作られたアルバムである。タイトル曲は、シルヴァーの父親の写真をジャケットに使用し、カーボベルデのリズムを取り入れたメロディーが印象的なナンバーである。この曲は後にスティーリー・ダンやスティービー・ワンダーなどにカバーされ、ジャズのスタンダードとなった7。また、このアルバムには「ザ・ネイティヴ・クイーン」や「ザ・ケープ・ヴァーディーン・ブルース」といった、カーボベルデに関連する曲も収録されている。

シルヴァーはカーボベルデの音楽だけでなく、ラテン音楽全般にも造詣が深く、キューバのチャ・チャ・チャやメキシコのマリアッチなども自分の音楽に取り入れた8。彼は「ラテン音楽はジャズにとって非常に重要な要素だと思う。ラテン音楽はジャズにリズムと色彩を与える」と述べている9。シルヴァーの音楽には、カーボベルデの息吹とラテンの情熱が溢れているのである。

ジャズの巨人たちとの出会いと交流

シルヴァーは10代の頃からジャズに興味を持ち始め、テナー・サックスを吹いたり、地元のクラブでピアノを弾いたりした。彼はバド・パウエルやアート・テイタムといったジャズ・ピアニストに憧れ、彼らのレコードを聴いて研究した。1950年には、スタン・ゲッツの来日公演に参加するためにニューヨークに移り、ジャズのメッカであるバードランドで演奏する機会を得た。この時期には、マイルス・デイヴィスやレスター・ヤング、コールマン・ホーキンスといったジャズの巨人たちと共演し、その才能を認められた。

1953年には、アート・ブレイキーと共にジャズ・メッセンジャーズを結成した。ジャズ・メッセンジャーズは、ハード・バップと呼ばれるジャズ・スタイルの代表的なグループであり、ブルースやゴスペル、アフリカ音楽などの要素を取り入れた力強く魅力的な音楽を奏でた。シルヴァーは、ジャズ・メッセンジャーズのピアニストとしてだけでなく、作曲家としても活躍し、多くの名曲を生み出した。例えば、「ザ・プリーチャー」や「ドゥードリン」、「ニカズ・ドリーム」などは、シルヴァーの代表作として知られる曲である。

1956年には、ジャズ・メッセンジャーズを脱退し、自分のクインテットを結成した。シルヴァーのクインテットは、テナー・サックス、トランペット、ピアノ、ベース、ドラムという標準的な編成であったが、シルヴァーはその中で独自のアレンジやハーモニーを展開した。彼は、ソロの間にもアンサンブルのパートを挿入したり、左手でコンプするのではなく、ベースと一緒にリズムパターンを刻んだり、サックスとトランペットに四度や五度の和音を吹かせたりといった工夫をした。これらの手法は、シルヴァーのクインテットのサウンドに緊張感と迫力を与えた。シルヴァーのクインテットには、ドナルド・バード、ハンク・モブレー、ジョー・ヘンダーソン、ブルー・ミッチェル、ジュニア・クックなど、後にジャズ界で活躍する多くのミュージシャンが参加した。

シルヴァーは、自分のクインテットのために数多くのオリジナル曲を作曲し、ブルーノート・レコードから多くのアルバムを発表した。彼の作品は、ハード・バップの典型としてだけでなく、ファンキー・ジャズの先駆者としても評価された。ファンキー・ジャズとは、ジャズにファンクやソウルなどの黒人音楽の要素を取り入れた音楽であり、シルヴァーはその代表的な作曲家として知られる。例えば、「フィルシー・マクナスティ」や「シスター・サディー」、「セニョリタ・エイズ」などは、シルヴァーのファンキー・ジャズの名曲である。

シルヴァーは、ジャズの巨人たちとの出会いと交流を通して、自分の音楽のスタイルと個性を確立した。彼は、ジャズの伝統を尊重しつつ、自分のルーツや感性を反映させた音楽を創造した。彼の音楽は、ジャズの歴史において重要な役割を果たしたのである。

探求心と創造力の発露

シルヴァーは、自分の音楽を常に進化させようとする探求心と創造力に満ちたミュージシャンであった。彼は、ジャズに限らず、様々なジャンルの音楽に興味を持ち、その中からインスピレーションを得た。彼は、クラシック音楽やオペラ、ロックやポップス、レゲエやカリプソ、インド音楽や日本音楽など、幅広い音楽に触れ、自分の音楽に取り入れようと試みた。彼は、「音楽は無限の可能性を秘めている。私はその可能性を探求することに情熱を感じる」と語っている。

シルヴァーは、音楽だけでなく、哲学や宗教、心理学、科学などにも関心を持ち、それらの分野からも音楽的なアイデアを得た。彼は、自然や宇宙、人間の精神や感情、神や霊などについて考え、その思想を音楽に表現した。例えば、『ザ・ジョディ・グラインド』(1966年)は、自然の法則や因果律についてのシルヴァーの考えを反映したアルバムである。タイトル曲は、ジョディという名の女性が自分の夫を裏切っているというストーリーをもとにした曲であるが、シルヴァーはそれを「自分の行いには必ず報いがある」というメッセージにつなげている。また、このアルバムには「グリーチ・イン・ザ・ハウス」や「メキシカン・ヒップ・ダンス」といった、シルヴァーのユーモアと遊び心が溢れる曲も収録されている。

シルヴァーは、1970年代に入ると、より実験的な音楽に挑戦し始めた。彼は、エレクトリック・ピアノやシンセサイザー、フルートやヴォーカルなどを取り入れたり、オーケストラや合唱団と共演したり、詩や物語を音楽に織り込んだりといった試みを行った。彼は、自分の音楽を「ユナイテッド・ステイツ・オブ・マインド」と呼び、人間の精神的な成長や幸福を目指す音楽と定義した。彼は、『ザ・ユナイテッド・ステイツ・オブ・マインド』(1970-1972年)という三部作のアルバムを発表し、そのコンセプトを具現化した。このアルバムには、「アシッド、ポッティッド・カントリー」や「ノー・ニード・トゥ・ストラグル」、「ミュージック・トゥ・イーズ・ユア・ディジーズ・トゥ」など、シルヴァーの哲学や信念が込められた曲が収録されている。

シルヴァーは、探求心と創造力の発露によって、自分の音楽の幅と深みを広げた。彼は、ジャズの枠にとらわれず、自分の音楽の表現力とメッセージ性を高めた。彼の音楽は、ジャズの可能性を拡張したのである。

まとめ

ホレス・シルヴァーは、ジャズの歴史において、ファンキー・ジャズの創始者として、また、ハード・バップの代表的な作曲家として、重要な位置を占めるミュージシャンである。彼の音楽は、カーボベルデの音楽やラテン音楽などの多様な文化の影響を受けたルーツ、バド・パウエルやアート・ブレイキーといったジャズの巨匠たちとの出会いと交流、そして自らの探求心と創造力によって形成された。彼の音楽は、ジャズの伝統を尊重しつつ、自分の感性や思想を反映させた音楽であり、ジャズの歴史において重要な役割を果たした。彼の音楽は、ジャズの魅力と意義を伝える音楽である。